人生最大の挫折から

私がどうしてパン屋になったのかの第二回目を書きたいと思います。
前回の記事はこちら。


バイクの設計を夢見て、浜松市に本社を置く某自動車メーカーに就職します。
しかし、ここで人生最大の挫折が待っていました。

なんと入社して配属されたのは、“設計部”ではなく“生産技術部”という部署。
高校1年生の時からずっと抱いていた“バイクの設計をする”という夢が泡と消えた瞬間でした...。
何のために7年間頑張ってきたのか、“虚無感”という言葉以外ありませんでした。

当時同期は200人ぐらいいたと記憶しています。
その中でバイクの設計部門に配属できたのはわずか数人でした。
確率からいっても狭き門であったのは確かですが、入れない現実を直ちに受け入れることは出来ませんでした。

ただ不幸中の幸いとでも言いましょうか、生産技術部の中でも二輪部門に配属されたので、設計者としてではありませんがバイクに携わる仕事に就くことができたのです。
夢は破れはしましたが、生活のためには働かなければなりません。
ここで辞めたところで、バイクの設計に携われるとも思えませんでした。
立ち直るのは容易ではありませんでしたが、くよくよしてもしょうがないので気持ちを切り替えて働くことにしたのです。

“生産技術部”について”簡単に説明しますと、自動車やバイクを作る工場を作る部署です。
工場を作るといっても一から作ることはめったにないことですので、普段は新機種を生産するための対応とか、ラインのオートメーション化を図ることとか、老朽化した設備の更新といったことが業務の中心です。

始めは不本意でしたが「バイクってこうやって作られるんだ。ラインで働いている人は大変だな。」などとバイクの生産にもだんだん興味が湧いてきました。
ラインの改善を行い生産効率を上げることが出来ると仕事にも手ごたえを感じ始め、こういう裏方の仕事も悪くはないなと思えるようになってきました。
ですがその矢先に再び挫折を味わうことになったのです。

入社3年目の頃でしょうか、四輪の業務に回ってくれと言われたのです。

四輪の担当になるということは、仕事から完全にバイクが離れることになるわけです。
バイクの設計をするという夢は破れ、バイクに携われるということで保っていたモチベーションまでも奪われる思いがしました。
この会社に入った意味すら見失いそうでした。

そのころ同期入社だった家内とはすでに付き合っており、おぼろげながらもこの娘と結婚するだろうなという思いはありましたので、仕事をすることは二人の将来のためとも考えていました。
このことが最後の頑張りを与えてくれました。

四輪の担当になることを受け入れたのです。
もし彼女と付き合っていなかったら、地元の山形に帰っていたかもしれません。

こうしてバイクの仕事をするという長年の夢に終止符を打ち、新たなステージで頑張ることを決意しました。

四輪の担当となってしばらくしたころ、工場へローテーションで出向することになりました。
このローテーションは、ある程度の年齢になると係長へ昇格するためのお約束のようなものとして行われます。

出向先の工場で行ったのはメインとして“省人化”の業務です。
“省人化”とは作業の改善により人員を削減して、生産コストを抑えるということです。

実はこれが私の中ではまりました。
作業の分析→無駄な作業の洗い出し→業務の改善→人員削減というサイクルが面白いように回るのです。
それもそのはずで、生産技術部という一歩離れたところからではなく現場の中に身を置いてるわけですから、とてもフットワーク良く業務が行えるのです。

自分でやった結果が数字になって見えるので楽しくて仕方がありません。
「今月は何人省人化出来たぞ!」とか、「よし今度はあの工程で省人化出来そうだ。」などと次々とアイデアが浮かびます。
結果の裏付けもあって、自分の中ではコストカッター気どりでした。

ですが出向期間も終わりに近づいたころ、現場の私に対する目が変わってきました。
現場に作業の改善箇所がないか調査しに行くと、「えっ!今度俺が省人化されるの?」とビクビクしているのです。
作業者にとっては今の仕事が続けられなくなるのは死活問題です。

実際には日本人の正社員が辞めることはなく、玉突きで下請けのブラジル人が辞めることになります。
ですが、いずれにしても私の“改善”のせいで誰かが辞めることになるわけですから、現場の作業者レベルでみれば迷惑な話です。

自分の中では会社に貢献している自負はありましたし、上司も評価してくれていたと思います。
ですが自分の中でだんだんとモヤモヤしたものが沸き上がり、ある日ふと「俺がやっている仕事って誰が喜んでくれるの?」と自問してしまったのです。

もちろん現場の作業者は喜んでいません。
強いて言えば喜んでくれるのは工場長ぐらいでしょうか。
ですがこれも「よく頑張ってくれたね!ありがとう!」などと言われるわけもありません。
工場長は私のことは知らなかったのではと思います。
私の結果を数字として認識していただけでしょう。

そしてさらに「じゃ、俺は誰ために働いているの?」と考えました。

そこで私はあることに気が付いてしまったのです。
実際に車やバイクを買って下さるお客様の姿は私の中には無いということに...。

改めて考えてみると、お客様からはすごくかけ離れたところで仕事をしているんだなということに気づかされました。
自分がやった仕事でお客様は安く車を買うことができ、結果としてお客様に喜んでもらえるということは理解できます。
しかし、お客様の喜びの声を実際に聞くことはありません。

これをきっかけに自分の存在価値は何なのかと自問する日々を過ごしました。
そしてだんだんと「自分のやったことで誰かに喜んでもらいたい!」という気持ちが強くなっていったのです。

まだ具体的な形にはなっていませんでしたが、新たなる“夢”が芽生え始めました。
バイクの設計をするという夢も破れた今、今度こそ自分の夢を叶えたいという思いが日に日に強くなっていきました。

そして30歳をすぎたころ、ついに会社を辞める決心をしたのです。

(長々と書いてしまいました。ちょっと疲れたシェフです。(笑))













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